昭和31年、国指定・重要無形文化財に指定、平成22年ユネスコ・無形文化遺産に認定された「結城紬」(指定時の名称)は現在、年間約1,000点強(ピーク時の約40分の1)の生産です。
そこで、本場結城紬産地の官民が連携して、「本場結城紬振興協議会」が設立され、 同時に「本場結城紬振興事業実行委員会」が起ちあがりました。
本場結城紬は、皆様もご存じの通り、「軽く」「温かい」「着崩れのし難い」最高の着心地を味わうことのできる日本を代表する「絹織物」です。
私たちは、より多くの方に「本場結城紬」の魅力をお伝えしたく、宣伝求評会または展示会の企画、販売促進・需要拡大に努めてまいります。
また、原料となる「手つむぎ糸」の確保や「絣括り」「地機織り」の後継者の育成等々、山積する産地の課題を、自らの手で解決していこうと強い意志で臨んでまいります。
しかしながら、既に産地だけの力では「原料」を含む「生産力」の確保が難しい局面に入ってきております。
我が国だけでなく世界においても稀有な「真綿の織物」を、温かく見守っていただける皆様に、ご理解ご協力を賜りたいと存じます。
詳細は上部のイベント情報をクリックしてください。
本場結城紬卸商協同組合内 事務局
TEL/FAX : 0296-33-2333 E-mail: info@yuki-tsumugishinko.com
8,結城紬の現況と展望
昭和三十一年に重要無形文化財の指定を受けた「平紬」は毎反検査を実施し、品質向上に貢献しましたので、昭和三十七年には、生産の主流を占める「縮織」も検査協会を設立して検査を開始しました。反物が高級化するなかで、年間生産量は二万八千反強でした。しかし、昭和六十年より生産数は減り続け、平成十九年度は五千反弱になっています。その原因には日本人のきもの離れや後継者不足など、多くの要素か考えられます。
対策として、茨城県の指導機関では、平成八年より、年度当初に四名の技術研修生を募集し、 一年間教育をしてから「機はた屋」に就職を斡旋していますが、顕著な効果を発揮するまでには至っていません。 一方、トレーサビリティー に対応するため、平成十年から、受検する反物のすべてのデータをコンピューターに保存しています。
本場結城紬には、市民の関心も高く、催事にはきものを着ようという運動が開始されました。また、機屋の組合でも品質向上を目指し、毎年秋に本場結城紬の作品展を開催し、三十四回目になりますが、職人気質の役員全員が初めてきものを着て作品展の運営に当たるなど、結城紬を盛り上げようという気運の高まりを感じます
本場結城紬は、単に暑さ寒さをしのぐものではありません。先祖が築いた素晴しい能力を秘めたきものなのです。産地の心意気が、必ず現況を打破してくれることを信じ、見守っていきたいと思います。
7,結城紬の特徴
一般に「紬」といえば節のある粗野な織物と決めつけ、他産地ではわざわざ節のある糸を織り込む人さえいますが、結城紬の生産者はいかに節の少ない織物を作るかで努力しています。真綿は「練り」といって、温湯のなかで丁寧に繭をほぐし、繊維に無理のかからない袋状にします。そして真綿に「なめし」(紡績のオイリング法)加工をして、ツクシという道具にかけ、指先で糸を引き出しますか、このとき節として取り除かれる量は、総量の約一割にもなります。
ここで、結城紬の生命である手つむぎ糸について詳しく説明しましよう。
ツクシに絡ませた真綿を左手の親指と人差し指で引き出します。このとき、絹の細い繊維が例えば百本と仮定しますと、繊維は切れるもの、張力がかかるもの、緩んでいるものなど百様の状態になります。そこへ湿り気を付けた右手の指で、ひねりを与えます。指の上部の繊維は右から左へ、下部の繊維は真綿の感触については、平成十年、信州大学繊維学部と字都宮大学教育学部、脳機能研究所の共同研究により発表された「真綿の総合特性の評価」という論文のなかで、左から右へひねりつけられます。この繰り返しで、まったく撚りのない嵩高かさだかの糸ができます。
本場結城紬が温かいのは、 この嵩高の糸のためで、また、撚りのないことで真綿の感触をそのまま織物に生かすことかでき、しわになりにくい要因 もなっています。さらに、その糸を地機で織ることで、布の表面が真綿の感触に近づきます。
「真綿に触ったときには、赤ちゃんに触ったときよりアルファー波の発生が多く、真綿はストレス社会に生きる現代人の救世主である」と述べられています
本場結城紬は、全工程を手作りすることで、絹の本質、特に真綿の特性を大切に生かした織物で、多くの優れた特徴がありますが、そのなかに「肌に触れることで心身を和ませる」という要素もあるのです。
6,模様の変遷
現在の結城紬の模様には、琉球絣のように伝統的なものはありません。 しかし、模様を構成する基本体は亀甲か十字でできています。 主流は亀甲で、単体の大きさで技術を競ったり、価格が決まったりしています。しかし、なぜ亀甲を採用したのか分かっていません。模様を連続するには、六角形が便利だったのではないかと思います。
長い無地の時代が続き、江戸時代に縞の技法が導入されて、これが末期まで続き、縞紬は高い評価を得ます。絣が初めて織られたのは慶応元年で、「べた絣」といって布一面に十字絣が入ったものです。絵絣ができるのは明治の中頃からです。一部の人によってトンボ絣、十字絣、井桁絣、亀甲絣が織られ、大正に入って緯絣の導入に成功し、女性用に進出します。昭和の初期、亀甲や十字を基本体とした絵絣が一部で作られていましたが、昭和八年に規格化された方眼紙ができるまでは、設計図用の方眼紙を手作りしていたということですから、先人の苦労は大変なものでした。
戦後、亀甲や十字絣を使った「細工物」と称する高級品が数多く生産されるようになった背景には、絣括りの作業に男子が参入したことと、小林作十郎、外山好両氏の発明による「経絣括り枠」の一般公開が大きく貢献しています。このようにして、模様の基本体がますます細かくなり、 ひと幅に八十の亀甲が主流であったのに、昭和三十年代には亀甲の数が百個でも珍しくなくなり、昭和四十二年には二百個の絵絣を完成させた超人的な人まで現れました。
負けん気の強い人たち、恵まれた気候風土、結城紬はこのような環境のなかで守り続けられてきました。
5,重要無形文化財指定
戦後、統制経済が解除され、 いち早く復興した結城紬は、大正時代から作り始めた御召地風の「縮織」が主流を占め、古い伝統をもった「平織」は、年間の生産量が千五百反と少なく、縮織と比較して作業も厳しいため、消滅するのではないかと憂慮されました。地元業者の熱心な陳情で、国はこの遺法と伝統を認め、 昭和三十一年三月三十一日付で、「重要無形文化財」 に指定しました。指定の理由として、「結城紬は日本においてまれに見る古様を伝える織物で、(略)芸術的な価値が高く、かつ地方的な特色が顕著である……」としています。技術保持者は、茨城・栃木両県より六名が代表選出されました。昭和五十年七月、国の文化財保護法の一部改正により、技術保持者の代表指定が団体指定に改められたため、両県合同で「本場結城紬技術保持会」を設立し、伝統技術の保持にあたっています。この技術保持会とは別に、関係市町村と茨城・栃木両県の文化課および指導機関によって「財団法人重要無形文化財結城紬技術保存会」が設立されています。
一方、 昭和五十二年には伝統的工芸品に指定され、伝統的産業振興協会の試験によって糸つむぎ、絣くびり、織りの三部門に「伝統工芸士」が誕生し、「本場結城紬伝統工芸士会」が運営されています。
4,近代化への変遷
江戸時代は無地、縞の時代が続きました。 結城の卸商が、今でも「縞屋」といわれることがあるのは、当時の名残です。質素で丈夫という消費者の要望は、しだいに繊細なものへと代わり、やがて絣へ挑戦させることになります。絣は、先進地・久留米では江戸末期・文化十年(一八一三)にすでに開発されていましたが、結城では五十年遅れて慶応元年(一八六五)に卸商の指導を得て、中河原村(現・小山市)の大塚いさ女、須藤うた女の両氏によって初めて織られました。その後も卸商の先進地視察によって、絣の試作に取り組み、失敗を繰り返しながら、結城紬の新しい局面を展開していきました。人気の上昇や販路の拡張が進むと、 一方で粗悪品が出回ることは防げず、地元では組合の結成や製品検査、そして証紙を貼ることで対抗措置を講じました。現在の結城紬に貼付されている証紙には、結城紬の頭に必ず「本場」とついています。 これは明治初頭から〇〇結城紬というものが各所から出回り、対抗上あえて「本場」という文字を付けて差別化しています。
技術の面では、明治四十年の博覧会に、ひと幅に二百個の蚊絣(十字絣)が出品され、当時の価格で一反八百円という並外れた価格が注目を集めたようです。 その後も、細かい絣に挑戦する人が出て、大正の初期には亀甲絣もひと幅に百二十個のものが記録に残されています。結城で縮織が初めて作られたのは明治三十五年頃で、一業者が栃木県佐野町の機業を見学した際にヒントを得たとされています。当時の結城紬といえば、男物と年配向きの女物ばかりでしたが、縮織発案で女性用のひとえものに進出がかない、売り上げが伸びてきました。この頃、株式取引所に和服による出入りが禁止され、「結城紬に角帯」という相場師の服装が姿を消すことになり、結城紬は女物への転換に拍車がかかり、縮織と絣の織り込みで、ますます声価は高まりました。
茨城県では、明治四十五年より、技術指導員を結城に駐在させて技術指導をしてきましたが、大正十年に公設の試験場設置を議決し、十三年に業務を開始しています。このような振興策が功を奏し、紬の生産はしだいに分業化して、農家の副業から専門の業者も出始めました。
しかし、昭和十五年、国家総動員法による「奢侈禁止令」で破滅的打撃を受けました。終戦後は結城紬の復興の気運が高まり、昭和二十三年には組合が結成され、 二十五年には茨城県に、二十八年には栃木県に、それぞれ公設の試験研究機関が設置され、指導育成に当たりました。
3,江戸時代の結城紬
豊臣秀吉の時代、北関東には佐竹氏と結城氏の二大豪族がいました。結城家十七代・晴朝は秀吉と積極的によしみを通じ、子供がなかったため、秀吉の養子・秀康(家康の子)を養嗣子に迎え、結城家の存続を図りました。秀康は関が原の合戦で家康側について戦功を認められ、越前に国替え、六十七万石に加増されます。 そのときの引っ越しは「結城ぐるみ」の大移動だったと伝えられています。結城家の去った後は、領地の大部分 は天領となり、初代代官として伊那備前守忠次が派遣されてきます。忠次は治山治水、そして産業振興に偉才を発揮し、紬の振興策としては信州上田より職工を招き、柳條しま(縞)の織法を導入、染色については陣屋に作業場を設け、陣頭指揮に当たったといわれています。このような技術導入は、結城紬の声価をいっそう高め、柳條の技術は全国に認められます。
江戸後期になると、鬼怒川、田川の水害が繰り返され、特に五十里の大洪水(一七一二年)は、養蚕業に壊滅的打撃を与え、農民に木綿織への転向を強いました。 また、蚕種業者は繭を求めて福島県に移りました。この地は鎌倉時代、源頼朝が奥州征伐のとき、隣接する中舘の伊佐氏が四人の子供と従軍し、軍功によって福島の伊達郡を賜り、移り住んだことから深い交流がありました。今日では、結城紬に用いる真綿は福島県の保原町から一〇〇パーセントの供給を受けています。
また、再三の「奢侈禁止令」に対しても、木綿織や貫ぬき紬(経糸木綿、緯糸紬糸)で切り抜け、「結城縞(木綿)」は木綿着尺の最高水準に達しましたが、明治維新以降、機械化の波に飲まれ、全滅しました。
2,結域紬の定着
養蚕を進めるにあたり、養蚕家を困らせるのは「のび繭」といって、汚染したり変形したものや、「玉繭」といって二匹の蚕がひと
つの繭を作るものができることです。これらは正規の商品になりませんので、当然、副産物として加工を考えることになります。
一方、蚕種業が盛んになると、蛾が出た後の「出がら繭」がたくさんできます。これらは繭から直接糸に引けませんので、
真綿にして糸に紡ぐ方法を考えるわけです。このようなことから、最近の研究者のなかには、結城紬はこの地で独自の開発が進められたという説を唱える人が出ています。従来の地元の研究者たちは、『常陸国風土記』の「久慈群太田郷の条」から「多屋おおねの命みことが三野の国から久慈(現・常陸太田市)に移り住み、機殿を造って初めて織物を織り、この織物の技術が常陸国全般に伝わり、「常陸絁あしぎぬ」として世に出、やがて「常陸紬」の名称に変わった」としています。そしてこの技術は結城地方に伝わり、結城紬の原型になるという考え方で、「財団法人重要無形文化財結城紬技術保存会」や紬業界はこの説をとっています。織物の技術をもったところへの技術移転ですから、受け入れは容易だったことが想像できます。いずれにしろ、真綿より引き出した太い糸で織った織物は、きわめて丈夫で、
見た目は質素だったようです。
鎌倉時代に入ると政治の主権は鎌倉に移り、結城紬は質実を尊ぶ関東武士の好みにかなったらしく、需要が増え、結城に産業として
根を下ろしました。当時の結城地方を見ると、源頼朝に加勢した下野国・小山政光の第三子・宗朝が、功績によって結城地方を
与えられてここに移り住み、名を結城七郎朝光と改め、この地に築城しました。文武両道の名君で、その後も武勲を重ね、
領土は筑波山麓から宇都宮に及び、経済の中心地として繁栄しました。
結城家は十八代・四百二十年続いたわけですが、この間、結城家から朝廷への献上品に紬が使われたため、「結城紬」の名称に
変わったとされています。文献上に初めて出てくるのは寛永十五年(一六三八)編の『毛吹草』で、この頃十種類の紬が諸国の
名産として挙げられ、各地で紬が織られていたことを証明しています。
1,古代の結城地方
結城は下総しもふさ国に属し、常陸ひたち国・下野しもつけ国の三国の国境に位置し、そこに流れる鬼怒川沿いに発達していました。この地方は気候風土に恵まれ、麻や穀ゆう(樹皮繊維を取る木の一種)の木がよく育つところとして織物の揺籃の地でもありました。『古語こご拾遺しゅうい』(八〇七年)に「よい麻の生ずるところゆえ総の国、また穀の木の生ずるところゆえ結城の郡という」とあります。また『古事記』(七一二年)や『日本書紀』(七二〇年)のなかに麻や穀などとともに桑の名が農耕作物にあり、養蚕業も盛んであったことがうかがえます。また、養蚕業にあわせて、この地では蚕種業も盛んになり、江戸期・元禄時代には全国に名声を博する蚕種の大産地になりました。
また、当時の農村の状況を記した『常陸国風土記』(七一三年)には次のように記されています。
「常陸国は面積が広大で土地が肥えており、原野は開墾に適し、陸と海の産物は多く、豊かに生活している。農耕そして養蚕や機織りに力を入れるものは、富を得て貧困を免れるであろう……。
昔の人が理想郷と言ったのはおそらくこの地のことではないか云々」
このように麻や穀の木の皮から繊維を取り出し、織物を作る技術は早くから発達していました。